改題:「憂鬱な希望」とともに さらば、村上龍さん
本日、作家の村上龍さんが亡くなったことを知りました。坂本龍一さんと同年で、私より10歳、年上であることから、私は若い頃、龍一さん共々、10年後の自身の目標とする「人としてのあり方」としていました。
『コインロッカー・ベイビーズ』を読み、『すべての男は消耗品である』を読んで以来、すっかり大ファンとなり、小説はほぼ全て、エッセーもほぼ全て読みました。まさに日本がバブル期に差し掛かり、そして、凋落していくのと正比例するかのように、龍さん自身の活動は変化をしていきました。そして、それは私も同じでした。龍さんと同じく、若い頃は、非常に「個人の力」を重視していました。個として難局に立った時、何度、龍さんの言葉に力をもらったことか。しかし、日本の盛衰とともに、私も変化し、いまや個人の力のみを重視し、称賛・非難することはなくなりました。
今、私の手元にある龍さんの本は、『ポップアートのある部屋』(単行本と文庫本)、それと、エッセーの『櫻の樹の下には瓦礫が埋まっている。』(文庫本)、そして、彼の名言集である『世紀末を一人歩きするために』(単行本)の4冊だけです。『櫻の樹の下には瓦礫が埋まっている。』は『すべての男は消耗品である』の最後の方のエッセー集で、私は50歳代になっていました。このころの龍さん自身は、若者はどうでもいい、自分には関心がないなどの、『ラブ&ポップ』を書いていた頃の姿勢とは全く異なっています。自身のことで手一杯だったのかもしれませんが、経済学にのめり込み始めた2000年頃から、日本は世界のGDPの第7番手くらいがちょうどいい、などという発言も出るようになり、勢いやパワーで押し切ろうという姿勢が徐々に見えなくなっていったように感じました。私もまた、それも正直で、龍さんがそう思って当然だと思う気持ちもありました。しかし、「小説で何十行も必要な描写が、経済学では数行で済んでしまう」として、経済学や経済界へ関心を向けるようになった時はがっかりしました。だからこその小説なんではないか、と。しかも関心を向けた先が、マルクス経済学ではなく、近代経済学だったのもびっくりしました。まあ、学科としては同じようなもんですけど(マルクス自身は違いますよ)。
龍さんがそうなる前に書いていた小説やエッセーからの名言を集めた『世紀末を一人歩きするために』は、私が若い頃のバイブルで、今、そのうちのどれかを引用しようとして読み返していましたが、どれもこれも、読むたびにその言葉に応じたシーンが思い出されて、混沌としてしまいます。逆に言うと、これらの言葉が自分にふさわしくあるように私は生きようとしてきたようにも思えます(まあ、側からみたらそう見えないかもしれませんが)。
あえて一つだけ引用します。
「挑戦者の感覚を持続できない人間は先へと進むことができない」
これはたぶん、生物の進化の過程で、魚が陸上にあがろうとした時のことを総括した言葉だったと思います。危険を冒さないと生物は進化できない。あるいは、危険を冒した生物だけが進化して、環境に適応できた、ということでしょう。
この言葉を、若き私は「個」のあるべき姿勢と捉えていました。予備校講師という、結局は一匹狼はこう考えるしかなく、自分で勉強し、自分で授業の準備をし、自分で授業のあり方を考えるしかないという職業的背景とも一致していたからです。
しかし、今は、「人類全体」のあるべき姿勢へと変換すべきだと思っています。そういう意味では、私にとって、若者も中年も老年も関係がありません。私には龍さんのように、どうでもいいと言い切れる勇気がなく、どこかで希望をもっています。龍さんの言う「個の力」を「集合の力」へと変換すれば、村上龍というテキストは今後も生き続けるでしょう。
かつてインターネットが普及し始めた頃、龍さんは『憂鬱な希望としてのインターネット』という本を出しました。もちろん、これはインターネット自身のことではなく、そこに投稿する人々について述べているものです。この「憂鬱な希望」が、龍さんにとっては、自身が最後まで見届けることができないであろう、インターネットの将来、若者の今後、そして世界の展望へ向けた、正直な気持ちだったのだろうと思います。この「憂鬱な希望」は私にもしっくりくる言葉です。
昨日、テレビで、有名人の非難・中傷をしてしまう人たちを扱った報道番組を見ました。すぐにこの本のタイトルが思い出されました。彼らは、ひまだった、他人がやっている、たいしたことではない、ということから、人を傷つける言葉を投げかけたそうです。その後、その投稿をしたことは忘れてしまい、後日、開示請求と賠償支払の通知を受け取って思い出すという体のものだったそうです。まさに「憂鬱」。でもそのうちの一人は「本当に申し訳ないと思う」と言っていました。これは「希望」。そんな人たちに対しては「どうでもいい」としか言えません。その人たちも「どうでもいい」のにやっているわけですから。
ただ、「憂鬱な希望」は、これまた「希望」であり、「憂鬱」ではありません。事実、このような非難・中傷をする「個」を非難している人々の方が圧倒的に多いというのも事実です。ですから、「個」に目を向けると、それは憂鬱でもあり希望でもあるのです。しかし、インターネットとAIに関しても「憂鬱な希望」として、私は付き合い続ける必要があります。その付き合いが私に「挑戦者の感覚」をもたせるものでもあります。私も最後まで、憂鬱に希望を抱えながら、マルクスについて語り続けることになります。マルクスが語っているのは「個」ではありませんから。
ただ、この「挑戦者の感覚」を持続し続けるのは本当に大変なことです。これを、新しいことを始めるという意味で言えば、龍さんも、龍一さんも、やはり歳をとってからは、なかなかそうはいかなかったようです。龍一さんも新曲をほとんど出さなくなり、2000年代はほとんどピアノ一本のコンサートでした。龍さんもまた新しい小説の出版が少なくなっていきました。その状況は寂しくはありましたが、だからと言って私の方に悪影響があるわけではありません。彼らのそういう姿もまた私の生き方の参考になります。それが私の彼らに対する接し方です。自分でやりたいことがある以上、感謝の気持ちをもって、彼らの進み方を参考にやりたいことを行うだけです。
村上龍さんは、私にとっては、テレビにおいても、エッセーにおいても、小説においても、とにかく、日々生きるパワーをもらっていた一人でした。今でも、事あるごとに思い出すのは龍さんの言葉でもあります。万感の感謝の気持ちをもって、お別れをしたいと思います。
ありがとうございました。さようなら、龍さん。かっこよかったです、あなたの言葉は。