「独和対比版 資本論 価値論」をチェックしていて
おはようございます。
ようやく秋らしくなってきました。釣りにもうってつけの季節となりました。
そんな中、いちおう完成した上記の本のチェックをしております。
前著『透明な世界へ』は、自分の考えを書くとともに、榎原均さんの解釈を紹介し説明することの両方を目指したが故に、若干、焦点が合わず、どっちつかずのものになっていたかもしれません。
今回は、とにかくAIに「絶対にマルクスの視点から離れるな」と、代々、言い聞かせて、書いてはチェックしてもらいました。したがって、今回の視点は定まっています。当たり前ですが、資本論の価値論であり、それ以外にはありません。だって、原文をそのまま掲載し、その単語の意味を文脈から一律に決定し、その元に翻訳をして掲載し、その元に解説を書いているわけですから、視点がぶれようがないのです。
マルクスが、商品の多様性から、社会的分業の有り様を引き出すように、まず、対象が存在し、私の思考はそれを忠実にトレースするようにして、それに適切な日本語を選択し、AIがぶれていないか、同じ単語の訳出なのに意味なく別の日本語を使っていないか、解説が本文内容から逸脱していないかをチェックする体制を守り抜きました。いわば、唯物論的に翻訳を行うことを目指したのです。
その結果、前にも書きましたが、この本では、普通価値論で登場する「物象化」という言葉は、ほぼ登場しません。なぜならマルクスが価値論で物象化という用語を使用していないからです。物象化は、第3巻の第48章では登場しますが、それも「生産関係の物象化」として登場します。よって、マルクスにとっては物象化Versachlichungという言葉は必要なかったのです。ちなみに物象化とは、語彙の成立通りに規定すれば、「物が社会的関係をもつ物象、すなわち、商品になること」であって、一般的に言われているように「物神性」を備えることを直接示してはいません。もちろん、物神性を備えるようになるのは物象になるのと同時ではありますが、今度は物象が物として見えるようにならないと、物神性が生まれたとはいえません。つまり、これまた、マルクスが価値論で使用していない言葉ですが、「物化」が起こっていないと、物神性は生まれないのです。
ね、ややこしいですね。こういう世間一般の誤った解釈が存在しているので、この本では物象化や物化という言葉は避けました。もし使えば誤解が生じることになる可能性が高いからです。
つまりこの本には、私はいません。おそらくAIの存在も感じないことでしょう。AIの書いた文も掲載しましたが、若干硬い表現が見受けられましたので、日本語の語勢に乗せるように書き直しました。マルクス系の書物では、どういうわけだか、マルクス以外の解釈者たる「著者」が表に出てくることが多いのですが、それでは唯物論的な姿勢とはいえません。あくまでも対象に則しつつ、対象を描き切ることが、唯物論的な書き方と言えるでしょう。