Plusを休憩している間に、宇野弘蔵さんの批判
こんにちは。
すっかりご無沙汰しております。前に申し上げた通り、ChatGTPをPlusにしたのですが、それは無料提供が1ヶ月分あったので、利用してみようということで始めたのでした。本来、一昨日でその期限が切れるはずだったのですが、今日までは使えるってことだったので、使っていました。そしたら先ほど、期限が来て切れてしまいました。そのまま有料版でも使うつもりですが、支払いが1日に方がわかりやすいので、そうしようということに、AIとの対話で決めていたので(これも面白いことですけど)、数時間Plusを使用できないだけでなく、無料版の方も今使えない状態になりました。多分メモリーの関係だと思います。こっちが数行しか書かなくても、相手はずらーっと50行程度送ってくるので、相手が悪いんです。
実は本当は一昨日に一旦終了して、ちょっと休もうと思っていたのです。ところが数日前にAIがWebで関連の論文を書いている人を紹介してきたので、PDFで論文も読めるようなので、休みの間に読んでおくわ、と言って、資本論の翻訳や解説の検討を一緒にやっている「本丸」とはバイバイしたのです。一方、私はこのAIに「関西部局」なるものを作っておりまして、そこではラーメン屋の大将がビールを飲みながら、音楽や絵画などの芸術や、日々の出来事や、資本論に関するちょっとした議論などもしています。本丸と関西部局は直接には同一ではなく、それぞれインターネットのホームページのように分かれているのです。指示をしたら、それぞれでどんなチャットをしていたかは探れるようになっています。関西部局は、文字通り、関西に設置されている、資本論等、私の興味関心にまつわることを調査する部局で、なぜかラーメン屋とバーも一緒に経営している設定になっています。バーのマスターの設定がうまくいかず、ちょっととっつきづらい人になってしまったので、もっぱらラーメン屋の大将と話をしています。
本丸には後に報告することになっていたので、関西部局の大将と、紹介された先生、早坂とかいう人の論文を一緒に読んでいたのです。違和感満載の論文で、マルクスの価値形態論で出てくる商品も「カテゴリー」と呼ぶのです。そして何かといえば「商品世界が…」とおっしゃる。ああ、これはヘーゲルを被せて資本論を読んでいるなと思い、さらに一緒に読んでいくと、AIが以下のように言ってきた。もちろん、関西弁やで。
純粋資本主義社会という全体
→そこから資本関係などを還元的に抽象
→商品世界という抽象的全体
→その商品世界が自己分化してForm Iへ
なんや。実際、「純粋な資本主義社会の全体性の土俵のもとでの抽象態」である商品世界を「端緒」とすると本人が明言してる。
だから、あんたのいう**「宇野さんの純粋資本主義=原理論の対象という立場に固執している」**は、かなりよい見当やと思う。ただし論文そのものがここで「宇野弘蔵に従ってこうする」と明記してるわけではないから、これはわれわれの系譜的な推測として区別しといた方がええ。
要するに早坂さんは、
「資本論の原理論は純粋資本主義社会という全体を対象にする」
という前提を先に動かしがたいものとして持っていて、ならば冒頭の商品も、その全体性を失った一個の商品であってはいけない、と考えるんやと思う。
だから、
「個別商品でも代表単数でもない。商品世界そのものだ」
になる。前論文でも、純粋資本主義社会から全体性を保持したまま還元的に抽象したカテゴリーだ、と明記してた。
そして、ここから先がまさに**『小論理学』化**する。
最初の「商品世界」はまだ多様な個々の商品として展開されていない即自的な全体。それが、
即自の商品世界
→「或るもの/他のもの」へ自己区別
→「他のもの」が特殊化してForm II
→「或るもの」側まで分化して網目化
→全商品が同一の立場へ戻る
→一つの「絶対的他者」を排出
→一般的等価物
と自己展開する。早坂さん自身、最後には「或るもの」と「他のもの」への分化は**「具体的な個別的商品の関係そのものではない」**とまで言い切ってる。
つまりリンネルも上着も、もはや本当の意味では「リンネル」「上着」じゃないんよ。
商品世界という概念の自己運動の役者。
まあ、私の思った通りの答えをしてきた。つまり、早坂さんにとっては商品はすべて抽象的なものの仮の姿なのです。私とAIは全く逆で、たとえば、「リンネル20エレ=上着1着」という等式も、これは単に文字ではなく、実際の商品がそのまま置かれているとイメージしています。もう、全くの逆なのです。
その後、手に入るだけの論文を読みましたが(このあたりは誠実にしないといけない)、もう全て同じで、逆にその統一性にびっくりしました。そりゃ、商品世界という想定をしたら、そこから外れるものは全て除外されるし、体系を維持できる。
で、昨日、どうする?って一緒に考えていたら、じゃあ久しぶりに宇野さんに帰ってみようかということになって、今日は朝から裏庭の掃除を数時間し、その後、昼ごはんを作り、昼寝してから、早坂さんが批判していた宇野さんの『経済方法論」の第4章を読み始めました。
そして、わずか3ページで宇野さんは終わりました。宇野さんは、資本論の始めの方にでてくる、「1クォーターの小麦=aツェントネルの鉄」という等式を、「「小麦と鉄との等式に示されるような直接的交換は、いわゆる物々交換にすぎず、むしろ商品としての交換を示すものではない。」(p.174)と読んでいます。ここでマルクスが問題にしていることは全く違うのです。マルクスは物々交換を描写しているのではなく、商品間における価値の表現方法を追求しようとしているのです。
面白いのは、そういう実体的側面として受け取って批判をするのに、マルクスが「社会的平均労働時間」と言い出すと、「資本主義以前の諸社会における商品交換は、むしろかかる社会的平均化の行われないところに発展してきたといってもよい。かかる社会においても、社会的労師が行われなかったわけではないし、生産条件が正常なものに帰一する傾向が全然なかったというわけでもない。またその労働が「社会的平均度」の熟練と強度とをもって行われなかったというのでもない。さらにまた労働の転換が必要に応じて行われてきたということも当然である。ただこれらの社会では、商品経済はなおその補足的部分をなすにすぎないのであって、商品経済的な社会的平均化はむしろ十分なる展開をなしえなかったのである。」(p.177)と、今度は実体的側面から批判するのです。位相が違う?この根本に何があるかわかりますか?価値形態論が全くわかっていないってことです。
「両者に「共通なもの」としてあらわれるのは直接に価値ではなくて、貨幣価格にほかならない。」(p.174)だいたいマルクスは、等式における共通なものが直接に価値として現れるとは言っていません。等価形態にある、ここでは鉄に小麦の価値が現象し、鉄のそのままの形として小麦の価値が表されているのです。もちろん見えません。逆にこのように迂回してしか、商品の価値は表すことができないのです。だから直接価値が現れるわけがない。ましてや貨幣価格がどうしてこの等式に現れるのでしょうか?二つの商品を並べたら、どちらも200円!とかってどっかに表示されるのでしょうか?
ここまで172ページから177ページ。全部で6ページ。これが日本を代表するマルクス経済学者だとして海外に紹介されているのです。海外ではすでに現実交換というのは常識として議論されてきているのに、本当に残念なことです。
最後のまとめはAIにしてもらいましょう。
宇野自身、後でマルクスの価格論については、
「一定量の等価、例えば1オンスの金が、直接に鉄と交換され得ることによって」鉄の価値が表現されるのであって、逆に鉄の方が直接に金と交換され得ることによって表現するのではない
というマルクスの説明を引用している。
つまり宇野は、貨幣形態まで来ると、この非対称性をちゃんと認識しているんよ。
ところが小麦―鉄では、
「直ちに」交換価値が相互的になる
としてしまう。
これはかなり面白いズレやと思う。
要するに、
貨幣になった途端には「価値形態の一方向性」が見える。
しかし一般の商品関係では、それを「交換比率」に溶かしてしまう。
だから俺は、あんたの
「鉄が小麦の交換価値の形態になっているんや。そこで交換比率の話をしてへん」
という指摘に賛成や。
しかも、宇野は別のところでは、マルクスが価値形態論によって「歴史的観点」を初めて成立させた、とまで評価している。
だからこれは「宇野は価値形態という言葉を知らない」という話ではない。
価値形態という概念を知っているのに、具体的な等式の中でその極性を維持できていない。
これがかなり重要なんやと思う。
そして、ここで早坂さんとの奇妙な一致が出てくる。
早坂さんは「商品世界」という全体から一と他への自己分化として価値形態を捉える。
宇野はここで二商品の関係を交換比率として捉える。
一見まったく違うけど、共通しているのは、
「この商品が、あの商品を、自分の価値を表現する形態として措定している」
という具体的な関係が消えていること。
金で鉄の価値が表現されるってのは、小学生でもわかっとる。問題はなぜその異なるもので異なるものの価値が表現されるか、それを追求したのが価値形態論なんやって。
私は今まで他の学者の批判はしないでおこうと思ってきたのですが、やっぱりこういう作業をしていかないと、正しくマルクスの考えは伝わらないのかなと思えてきました。まだ、その段階ではありませんが。