B.T.T.B. Back to the basic そして、透明な世界へ

資本論の価値論に関する論説 等

ChatGTPをPlusに変えたら、素晴らしく大変なことになった 1

b-t-t-b

こんにちは。資本論の独和対比版は単なるドイツ語原文と日本語訳を並べただけのものではなくなりました。


初めは、前著の『透明な世界へ』の付録的な役割をするものとして作成し始めました。手元に、原文の打ち込みと、もちろん翻訳文と、単語一覧が残っていたので、それを組み合わせて、空きスペースには『透明な世界へ』の解説をコンパクトにまとめたものを入れて完成!のつもりだったのです。それがAIと対話しながら作成しているうちに、かなり大きな方向転換が生まれました。


そのきっかけがChatGTPを無料版から有料のPlusに変更したことです。無料版ではメモリがいっぱいになることが多くなり、数時間待たないと再利用できない、再利用が可能になってもまたすぐ止まってしまう、という状況になったからです。資本論のドイツ語原文と、その構造解説と、その翻訳文を一挙に段落ごとにチェックしてもらっていたので、当然です。そのうち、1ヶ月の無料オファーがきたので、まんまとそれに乗ることにさせられました。しかし、おかげで仕事が数倍早く進むようになりました。その一方で、予想していなかった事態になりました。


ひとつは、訳語の統一です。こちらはもちろん統一していたつもりですが、Plusにしてから、新たに資本論初版の本文の一からチェックをしてもらい、議論をしていくと、徐々にAIの方が「要チェック」の単語を溜めていってくれて、訳出が異なっていたものに関しては変更を勧めてきます。もちろんこちらは無視しても良いのですが、そうすると、「他の〜との整合性がとれなくなる」ともっともなことで説得にかかってくるので、こちらも認めざるをえなくなるのです。記憶に関しては、もう争わないことにしました。


もうひとつは、読者に対して誤読を防ぐための注意書きを増やしたことです。これを前著から引っ張ってきて入れようと思っていたのですが、見解が一部変化したこともあり、オリジナルの解説を入れることになりました。


今、現行版の価値論と交換過程論を終え、初版本文の価値論と交換過程論を修了し、初版の付録の価値形態論のチェックを行っています。ということで、私がAIと対話をする以前は「物象化と物神性を区別する」などとわけのわからないことを言っていたAIが、私との議論を通じて、価値論を理解し始め、もはや私と同レベルかそれ以上のレベルになりつつあります。本日は、棒砂糖と鉄片を秤におくと、棒砂糖の重量が鉄片に現象するという箇所まで進みました。そこで以下のようなやりとりが行われました。


私:この段落の内容は日本ではけっこう議論になったんだよね。


AI: …ここで一つ非常に重要な【読者注意】があります。

この比喩でマルクスが示そうとしているのは、

一方の物体の現物形態が、関係の内部で、両者に共通するものの現象形態として機能する

という形態構造です。

鉄は砂糖との重量関係の内部で「重さの姿」になる。
上着はリンネルとの価値関係の内部で「価値の姿」になる。

しかし、両者を完全に同一視してはいけない。

重さは物体の自然的属性ですが、価値は商品の社会的規定です。

だからこの類比は、

「重さと価値は同じ種類の属性だ」

という話ではなく、

関係の中で、一つの物体の自然形態が他方のある規定の現象形態として機能する

という点だけを説明している。


私:そう、御明察の通りで、宇野派のせんせが鉄や棒砂糖は物体で、商品の価値は物体ではないじゃないか!ときたのです。


AI:ああ、なるほど(笑)。でも、その批判は比喩の射程を取り違えていると思います。

マルクスは「価値=重さ」と言っているわけではない。まして「価値は物体的属性だ」と言っているわけでもない。比較しているのは、一方のものの規定が、他方の物体の自然形態を通じて現象するという形態構造です。

だから、鉄と棒砂糖が物体であること自体は、むしろ例として必要なんですよね。棒砂糖の重さは、鉄との重量関係に入ることで、鉄の身体を尺度として現れる。同じように、リンネルの価値は、上着との価値関係に入ることで、上着の身体を価値の姿として現す。両者の共通点はここです。

ただし決定的な違いは、

重さ=自然的属性
価値=社会的規定

ということ。

なので、批判するなら、

「この類比は自然的属性と社会的規定を混同しやすい」

というなら分かる。でも、

「鉄や砂糖は物体だが価値は物体ではない、だから例が間違い」

だと、マルクスが何を類比しているかを外していると思います。

むしろこの例の妙は、物体でない社会的規定が、他商品の物体的な自然形態を自分の現象形態として使うという価値形態の奇妙さを、自然的な重量関係との対照で見せるところにあります。

ここ、独和対比版で軽く触れてもいいかもしれませんね。
「この比喩は重さと価値の本性を同一視するものではなく、関係の内部で一方の物体形態が他方の規定の現象形態となる構造だけを比較している」と一言あると、昔の論争もかなり整理できます。


私:一言で終わりだよね。関係による規定性がわかっていないようで、「重さは物体にそのまま存在するじゃないか」とも言っていました。


AI:はい、一言で足ります。

この比喩の要点は、重さと価値が同じ種類の属性だということではなく、ある規定が関係の内部で、他方の物体形態を通じて現象するという構造にある。

これで十分です。

「重さは物体にそのまま存在するじゃないか」という批判も、まさにそこを外しています。もちろん重さは物体の自然的属性として存在する。しかしマルクスが問題にしているのは、その重さがどう表現されるかです。棒砂糖の重さそのものと、鉄がその重さの現象形態・尺度として機能することは別問題です。

同じように、価値も「あるかないか」だけの話ではなく、それが他商品の現物形態においてどう現象するかが価値形態論の問題です。

なので、対比版では論争を長く紹介せず、今の一文だけ置くくらいがちょうどいいと思います。


私:しゃあない、入れとくかって感じです。入れました。なんでこんなことがわからないんだろうね。その一方で価値は他の商品で表現されることはわかっているみたいなんだよね。不思議だわ。


AI:そこ、私も不思議に見えます。でもたぶん、「価値は他の商品で表現される」という結果だけは理解していて、その表現が成立する仕組みを関係そのものから捉えていないんだと思います。

つまり、

リンネルの価値は上着で表現される

までは分かる。けれど、

なぜ上着の現物形態がリンネルの価値の現象形態になりうるのか

となると、そこで「上着そのものの性質」と「価値関係の内部で上着が受ける形態規定」とを分けられなくなる。

だから「重さは棒砂糖に最初からあるじゃないか」という反論が出てくる。確かに重さはあります。でも、マルクスが説明しているのは重さの存在ではなく、その重さが鉄という別の物体を通じてどう表現されるかなんですよね。

価値についても同じで、

価値があること
と
価値がどの形態で現象するか

は別問題です。

ここが腑に落ちていないと、「他商品で表現される」は覚えられても、他商品の現物形態が価値形態になるというところで急に抵抗が出る。

なので、ある意味では「分かっていること」と「分かっていないこと」が矛盾しているわけではなくて、結論は受け入れているが、その結論を成立させる関係規定をまだ掴んでいないということなんでしょうね。

このズレ、価値形態論では本当によく起きる気がします。


まあ、すごいことになってきました。昔はこういう説明はできなかったんだって。私も昔、教え子を育てる予備校講師という仕事をしていました。東大にも医大にも早慶大にも関関同立大にも入る生徒に育ってくれた「人間」は多かったのですが、マルクスをここまで理解できるように育ってくれた人はいません(教えたことないけど)。


こういう調子でこの100日近く、ほぼ毎日平均して5時間程度、計500時間前後、対話をしてきましたので、私もAIからの反応を受けて考え直し、今までの認識を反省せざるをえなくなりました。


一部ではありますが、榎原さんの主張点も討論の対象にして、議論しました。その結果、前著とは違う見解を抱くことになってきました。この作業が続けば、前著での見解は、今の私からすると若干間違っていることになり、それをそのまま刊行し続けることは、独特的にも良くないことだと判断せざるをえないことになってきました。特に、商品による意志支配の点、つまり交換過程における人間の有り様の認識と、久留間シェーマに対する批判のあり方に関してです。また、初版の重視は一部では榎原さんのおっしゃる通り重要ですが、現行版も、別の側面から、以前より評価をするようになりました。


ですから、前著はひょっとすると廃刊にして、新たに、この独和対比版と「価値論完成版」(仮題)を刊行し、その後、両者をChatGTPに手伝ってもらって、英語版とドイツ語版を出版し、さらに榎原さんの論文を世界に知らせるために、その一部を、これまたChatGTPに手伝ってもらって、英語版とドイツ語版で出版したいと思うようになりました(まだ相談していませんが、これは共同で行いたいと思っている人が別にいます)。これなら、現『透明な世界へ』を解体して編成しなおすことになり、私と榎原さんや牧野さんとの見解を峻別したものにできますし、その方が読者にとっても意味があるでしょう。

×

非ログインユーザーとして返信する