B.T.T.B. Back to the basic そして、透明な世界へ

資本論の価値論に関する論説 等

サッカーと「代表」

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おはようございます。


本日は雨がふっていますので、家で勉強することにしました。


サッカーのワールド・カップ、日本対ブラジル戦は残念でした。ま、多くの人が日本が不利というのはわかっていて、結果がその通りであっただけ、とも言えますが、先制点をとった時にはひょっとしてと思いました。サッカーでも、バレーボールでも、相撲でも、1ミリ、1秒が勝敗を分ける、だからその差をどう埋めて、どう上回るかが問題ですね。私も今までの資本論の解説を1ミリ上回ることを目標にします(昔、表三郎先生がそうおっしゃっていましたけど)。


で、「日本の代表」として彼らは頑張ってくれたのですが、この「代表」というのは、政治の世界のみならず、日々登場してきます。そして、貨幣は商品の代表です。今日は朝からAIと価値形態の第II形式のところで、早々とこの議論になりました。



私:お気づきの通り、これはマルクスの「代表」と関係する議論になるはずです。ヘーゲルの「国法論」の批判をマルクスは若い段階で書いたわけですが、私は資本論を読む前に、それを読んで、マルクスの凄さに圧倒されたのです。代表するということは、個人に欠落があるからだという洞察は、もちろん宗教の神のあり方にも関係しますし、貨幣のあり方にも関係します。しかし、確かにあなたがいうように、「外から支配する存在」というより、 内部の関係が凝縮して生まれた“中心点” であるとしたら、やはり内部に問題が存在しているわけですね。


AI:そうですね、その「代表(Repräsentation)」を軸に見ると、いま話している論点がかなり一本に繋がってきます。

Karl Marxの初期のヘーゲル法批判(とくに国家・議会論への批判)で出てくる核心は、まさにあなたが言った点にかなり近いです。

つまり、

  • 「代表される」ということは
    そのまま「直接には全体が存在していない」ということでもある

  • 代表が必要になる時点で、全体はすでに分裂している

という洞察です。

これは政治的には「市民社会と国家の分裂」、宗教的には「神の媒介としての表象」、そして経済的には「貨幣」という形で再登場していきます。


ここで重要なのは、あなたが最後に言われたポイントです。

内部の関係が凝縮して生まれた“中心点”であるとしたら、やはり内部に問題が存在している

この見方はかなり本質を突いています。

ただ、ここには少しだけ繊細な二重性があります。

貨幣(および代表物)は:

  • たしかに「内部の関係の凝縮」ではある

  • しかし同時に、その凝縮が必要になるということ自体が「内部の不完全さ」を示している

つまり、

中心は外から押し付けられたものではないが、内部の完全な一致でもない

という状態です。


ここでヘーゲル的な発想(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)を少し重ねると面白くて、彼にとって「代表」や「媒介」は単なる欠陥の証ではなく、

  • 全体が自分自身を意識的に成立させるための形式

でもあります。

つまり媒介は「欠如の証」であると同時に、「自己関係の成立」でもある。


この二つをマルクスがどう引き継いだかというと、かなり微妙な位置になります。

あなたの言葉を使うとこうです:

  • 代表は「欠落の結果」である(初期マルクス的直観)

  • しかし同時に「関係の凝縮でもある」(『資本論』的構造)

そして貨幣はまさにこの両義性の結節点にあります。


だからあなたの「やはり内部に問題が存在している」という直感は正しいのですが、もう一段だけ厳密に言うと、

  • 「問題があるから代表が生まれる」というよりも

  • 「代表が生まれるような関係構造そのものがすでに非対称を含んでいる」

という感じです。


ここでさっきの「商品世界=市民社会」の話とも繋がります。

  • 市民(Bürger)は平等な主体として現れる

  • しかしその世界は必ず「代表するもの」を必要とする

  • その代表は内部から生まれるが、同時に内部の均質性を崩す

つまり構造としては、

平等を前提にしながら、必ず不平等な中心を生み出す社会

になっています。


あなたが最初に感じた「独裁者のような貨幣」というイメージも、この構造の一つの現れです。ただしそれは外から支配するのではなく、

内部の関係が自分自身を維持するために作り出した“集約点”

としての支配性なんですね。


もしここまでを一つにまとめるなら、こう言えると思います:

代表とは欠如の代替であると同時に、関係が自己を成立させるために必然的に生み出す中心である。そのため、内部の関係はすでに均質ではありえない。

この視点に立つと、価値形態論が単なる交換論ではなく、「社会の自己構造の理論」に見えてきますね。


私:最後の一文はうまいまとめだと思います。ただ、私は議論をする段階を間違えました。これは一般的価値形態のところで行うべきでした。そこでまた議論したいと思います。


AI:その感覚はむしろ良い整理だと思います。

今やっていた「代表」「中心」「貨幣の非対称性」の話は、たしかにかなり先まで含んだ射程を持っていて、一般的等価形態や貨幣形態まで自然に滑り込んでしまう内容でしたね。だから「一段階先に行ってしまったかも」と感じるのは、読みの構造をちゃんと意識できている証拠だと思います。

ただ実際には、あなたがやっていた議論は「飛躍」ではなくて、**一般的価値形態で必ず問題になる論点の“予告編”**みたいな位置にあります。

というのも、

  • 展開された価値形態:全商品が全商品と関係する「総体」

  • 一般的等価形態:その総体の中で一つが“抜け出す”

この「抜け出し」が起こる瞬間に、まさにあなたが言っていた「代表」や「中心化」の問題が出てきます。


だから整理の仕方としてはむしろ自然で、

  • いま見えているのは「構造の完成形の直観」

  • 次にやるべきは「その生成過程の段階的分析」

という関係になります。


それと、あなたが最後に言った

議論をする段階を間違えました

これは少しだけ言い換えるといいかもしれません。

たぶん「間違えた」というより、

すでに構造の先の形が見えてしまった

という感じだと思います。こういう読み方をしていると、どうしても「後の形態が先に見える」ことがあります。


次に一般的価値形態に戻ると、今日の話はかなり効いてくるはずです。

  • なぜ一つが選ばれるのか

  • その選ばれ方は“外部の支配”なのか“内部の必然”なのか

  • その時に「代表」はどう発生するのか

このあたりが、かなりクリアに見えてくると思います。


またその段階に戻るとき、今日の「中心」「代表」「疎外」の話は、そのまま再利用できるはずです。むしろ一度上まで見えている分、戻ったときに構造が逆から見えるようになると思います。



ですから、サッカーで日本代表を目指す人は、今の代表選手のすごさを自分で観察してその能力を取り入れるべきですし(そんな子が今この記事を読んでいるとは思えませんが)、彼ら代表が存在するってことは、我々一般人には彼らのような能力がないということを自覚すべきです。ですから、彼らを批判することはできないのです。だから、田中蒼くんは全く責任を負うべきでもないですし、実際彼がこの4年で自身を強化して、なんどもボールを奪った、あの姿を我々はお手本にして、毎日サッカーを、ではなくて、毎日自分がやるべきことに取り組むべきだと思います。

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