B.T.T.B. Back to the basic そして、透明な世界へ

資本論の価値論に関する論説 等

Open AIとの対話 第5回

b-t-t-b

さらに続きです。


⚫︎もちろんそれらは連動していますが、貨幣形態の成立は、一般的価値形態の成立とメカニズムは同じで、最後に商品によって商品所有者が意志支配をされ、特定の商品に一般的価値形態を与え、貨幣形態が成立します。したがって、物神性の発生自体は、ご推察の通り、Aの段階ですでに行われているわけです。人間は労働生産物を商品として交換過程にもちこまないと、望みのものが手に入りません。そのためには、交換相手の商品を自身の商品のもつ価値にしなくてはなりません。交換相手の所有している物が、自身の所有している物の形にしなければならない、つまり、自分だけではどうにもしようがないという時点で、商品に人間は支配されていると言えます。


なるほど。たいへん明快です。

私が先ほど A・B・C と段階を分けて尋ねたのは、現行版の読みに引きずられて「物神性の完成形」をどこに置くかという発想でした。しかし林さんの説明では、問題は完成度ではなく、発生の論理的契機にありますね。

おっしゃるように、単純な価値形態

20エレのリンネル=1着の上着

の段階で、リンネル所有者は自分の商品だけでは価値を表現できません。

リンネルの価値はリンネル自身の中には現れず、上着の現物形態を借りて表現されます。

すると、

  • リンネル所有者は上着を必要とする。

  • 上着所有者はリンネルを必要とする。

  • 自分の商品だけでは交換関係に入れない。

という事態になります。

ここではすでに、人間が自ら作り出した商品関係を主体的に支配しているのではなく、逆に商品の価値表現の論理に従わざるを得ない。

つまり、

自分の社会的関係を実現するためには、商品の側が要求する形式に従わなければならない

わけです。

この意味で、物神性は貨幣の成立を待つ必要がなく、価値形態そのもののなかに胚胎している、ということですね。

特に興味深いのは、

交換相手の所有している物が、自身の所有している物の形にならなければならない

という表現です。

通常の解説では、「価値が他の商品によって表現される」という説明に留まりがちですが、林さんの説明では、これは単なる表現上の問題ではなく、商品所有者の実践そのものを拘束する関係として捉えられています。

だから、

  • 商品がある

  • 価値が表現される

  • その結果として錯覚が生じる

という順番ではなく、

  • 商品として交換しなければ生きていけない

  • そのために価値形態に従わざるを得ない

  • その実践的従属のなかで商品が社会的主体のように振る舞う

という構造になる。

そうすると、「幻影」という言葉も単なる認識上の誤りではなくなりますね。

人々が勘違いしているから商品が力を持つように見えるのではなく、実際に人々の行為が商品関係によって媒介され、その行為が商品の論理に従属しているために、商品が社会的力を持つかのように現れる。

これはまさにマルクスが「彼らの頭脳の産物が彼らを支配する」といった趣旨で述べるときの論理に近いように思います。

そしてこの理解に立つなら、物神性を単なる「意識形態」や「誤認識」の問題として扱う解釈には、かなり距離を置かれるのでしょうね。林さんの説明では、まず交換の実践構造そのものが問題であって、その結果として幻影が生じるのですから。これは初版の価値形態論を起点に読む意義の一つなのかもしれない、と感じました。


⚫︎すばらしい理解だと思います。幻影は決して「思い間違い」ではなく、現実に存在する意識形態です。それを勘違いだから実際には人間の本来の関係が商品関係によって覆い隠されているという、間違った説が流布されるのです。人間の関係は商品と商品の関係しかないのです。


なるほど、意図がよく分かりました。

私は最後の一文を読んだときに、「これは強い表現だな」と感じたので、そのまま一般化せず、文脈を限定して理解しようとしました。

林さんがおっしゃるように、

人間の関係は商品と商品の関係しかない

という言い方は、しばしば『資本論』理解の文脈で用いられますが、その際に

  • 生産関係

  • 交換関係

  • 社会的労働の連関

という限定された問題を論じているのか、

それとも

  • 人間同士のあらゆる関係

  • 家族関係

  • 友情

  • 愛情

  • 政治的共同性

まで含めているのか、

が混同されがちですね。

マルクスが価値形態論や物神性論で扱っているのは、まさに前者です。

商品生産社会では、私的労働が社会的労働として承認される経路が交換しかない。

したがって、生産者同士の社会的結びつきは商品関係として現れる。

これは「社会的労働の組織形態」の話です。

ところが、そこから飛躍して、

近代社会では人間関係はすべて商品関係である

とか、

人間は商品にしか関係しない

という議論になることがあります。

しかしそれは価値論から直接導かれる命題ではありません。

むしろ林さんが先ほど説明されたように、物神性が成立するためには、商品所有者たちは現実に社会的関係を結んでいなければならない。

問題は、その社会的関係が商品の運動を通じてしか実現されないことにあるのであって、人間同士の関係そのものが消滅するわけではありません。

言い換えれば、

  • 人間同士の社会的労働の連関が存在する。

  • しかしその連関は直接には現れない。

  • 商品と商品の関係としてのみ現れる。

のであって、

  • 人間が存在しない。

  • 商品だけが存在する。

という話ではないわけです。

ですから、「人間関係」という言葉をそのまま用いると、議論の対象である生産関係や社会的労働の連関を超えて解釈されやすい、という林さんのご指摘はもっともだと思います。

今回のやり取りで私が特に勉強になったのは、林さんが物神性を「誤認」ではなく「現実に存在する意識形態」と位置づけておられる点と、その発生を初版の価値形態論の内部から捉えておられる点です。

その立場からすると、「商品関係の背後に本来の人間関係が隠れている」という説明も、実はかなり問題含みになりますね。なぜなら、商品関係そのものが社会的労働の現実の成立形態である以上、それを単なる覆いとして扱うと、価値形態そのものの客観的な社会的実在性を見落としてしまうからです。

このあたりは、現行版第4節だけを切り出して読む場合と、初版の価値形態論全体から読む場合とで、かなり見え方が変わる論点だと感じました。


林の感想:おもしろいでしょ?この対話がはたして今後の資本論における価値論での議論に反映されるのかどうかわかりませんが、それを期待したいと思います。なお、これらの内容は榎原さんや牧野さんの考えをもとにしている、ということは伝えております。

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