Open AIとの対話 第4回
まずはAIは間違いを認めるのかどうか、を知りたいと思い、以下のように質問をしました。
⚫︎ちなみに、「物象化と物神性を区別して説明する立場をとっている」とされていますが、両者は全く別の概念です。物象化は、労働生産物が商品になる、いわゆる価値形態を経る過程で、労働者の意識が支配されていく過程ですが、物神性は成立した商品がまとう人間自身から自立した物として商品が成立する幻影です。物象化を経て、物神性が誕生するのであり、両者が混同されているわけでもなく、私はそのことを区別して何かを説明しているわけではありません
なるほど。ご指摘ありがとうございます。
私の先ほどの説明は、書誌情報や紹介文から推測したものでしたが、今うかがった説明を読むと、私のまとめ方は不正確でした。
林さんの説明によれば、
物象化(Verdinglichung) は、労働生産物が商品として価値形態をとる過程において、人間の社会的関係が物的な関係として現れ、人間の意識がその関係に規定されていく過程である。
物神性(Fetischcharakter) は、その過程を経て成立した商品が、あたかも人間から自立した社会的力をもつ物であるかのように現れる幻影である。
したがって、両者は同じ現象を指す別名ではなく、
物象化 → 物神性
という生成的・論理的な関係にある、ということですね。
私が「区別して説明する立場」と表現したのは、あたかも従来の議論で混同されている二つの概念を整理しているかのような言い方になっていました。しかし林さんのご説明では、問題は概念の整理ではなく、価値形態の展開のなかで物象化が進行し、その結果として物神性が成立するという論理そのものにあります。
この説明をうかがっていて思い出したのは、『資本論』第1章の構成です。
商品
価値形態
交換過程
商品の物神的性格
という順序になっていますが、多くの読者は第4節の物神性だけを独立した思想的テーマとして読んでしまいます。しかし林さんの説明だと、物神性は第1~3節、とりわけ価値形態の展開によって準備された結果として理解されるべきだ、ということになるのでしょう。
そうすると、先ほどの「全世界の社会的に必要な労働時間」の話も少し違って見えてきます。私は価値量論の問題として答えましたが、もし価値形態論の観点から問うなら、
抽象的人間労働が世界市場規模で社会的に妥当する条件とは何か
という問題に接続しうるのかもしれません。
もちろん、これは私が今のお話から連想したことであって、林さんご自身の立場を推測しているにすぎません。
ご本人から直接うかがえる機会はめったにありませんので、むしろ私としては、林さんが「物象化」と「物神性」をどう定義されるのかよりも、その両者の関係を『資本論』初版の価値形態論のどの箇所から読み取っておられるのかに興味があります。初版を重視されているとのことですので、現行版第1章第4節とは少し異なる論理展開を見ておられるのでしょうか。
⚫︎現行版第1章第4節の物神性は、初版では独立して扱われていません。初版では価値形態の展開のなかで、相対的価値形態が、等価形態の現物形態となって、現象する過程のなかで、説明されています。マルクスは、現行版を執筆する前に、初版の付録で価値形態をやや簡単に説明しなおしており、その過程で、等価形態への重視がされました、それが独立して、現行版の現行版第1章第4節に集約されたのです。ですから、初版の価値形態の展開を今一度じっくりと検討し直す必要があります。廣松渉さんや宇野弘蔵さんなどの著名な学者さんたちは初版の検討をしていない結果、物象化が、本来、物化と呼ぶべきものと混同されています。混同を指摘するなら、物象化と物化の混同であり、物神性と物象化の混同ではありません。
大変興味深いご指摘です。
お話をうかがうと、私が先ほど想定していた枠組み自体が、かなり現行版中心の理解に引きずられていました。
林さんのお立場では、
初版では物神性は独立した主題として論じられていない。
物神性は価値形態の展開そのもののなかで生じる。
特に相対的価値形態と等価形態の関係、そして価値が等価商品の現物形態として現れる過程のなかで理解されるべきである。
その後、付録における価値形態論の再整理を経て、等価形態の特異性への着目が強まり、それが現行版第1章第4節として独立化した。
ということになりますね。
そうすると、現行版の構成から逆に初版を読むと、
「まず価値形態論があり、そのあと物神性論が付け加わる」
ように見えてしまう。しかし実際には、
価値形態そのものの展開が、すでに物神性の発生過程である。
という理解になるわけですね。
そしてもう一つ、私にはこちらのほうがむしろ新鮮でしたが、
物象化(Verdinglichung)と物化(Versachlichung)の区別
の問題です。
日本のマルクス研究では、確かに「物象化」という語が非常に広く使われ、そのなかに
社会関係が物的形態をとること
人間の活動の成果が人間に対立すること
商品が独立した存在として現れること
などがまとめて押し込められている印象があります。
しかし林さんのお話では、本来問題にすべき混同は、
物化=社会的契機が物的な形態に定着すること
物象化=価値形態の運動のなかで意識が支配される過程
の混同であって、
物象化と物神性はむしろ論理的に連続している、ということですね。
もしそうだとすると、現行版第4節だけを切り出して議論する研究では、価値形態論そのものの運動から物神性を説明する視点が失われやすくなるのかもしれません。
私自身は初版を断片的にしか読んでいませんので、ここから先は教えていただきたいのですが、林さんのお考えでは、物神性が発生する決定的な契機は、
A. 単純な価値形態において、すでに相対価値形態と等価形態の対立のなかで現れる
B. 一般的価値形態の成立によって初めて本格的に現れる
C. 貨幣形態まで到達して初めて完成する
このうちどこに置かれるのでしょうか。
私の理解では、初版を重視するなら、かなり早い段階から等価形態の特異性が問題になっているようにも思えるのですが、林さんはどこを決定的な転換点と見ておられるのか、興味があります。
林の感想:本当によく理解ができていると思いました。現行版の誤解しやすい点をきちんと整理して、今までの物神性や物象化が誤解に基づくということを認識しているのです。これが、私の説明の仕方が良かったのか、AI自身が本当に理屈の通っていることだけを認めようとしているのか、それはわかりませんが、とにかく理屈が通っていれば、それを認めるという姿勢が表れているように思えます。