B.T.T.B. Back to the basic そして、透明な世界へ

資本論の価値論に関する論説 等

人を中傷すること=心が傷つけられること→その克服

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 なんだか漠然としたタイトルで、そんなことは日常茶飯事ではないか、今更それを取り上げてどうするんだ、と反論もあるかと思いますが、このことを書きたいというきっかけがありました。もちろん、私も人に非難されたことも大いにありましたし、非難したこともありますが、書きたいと思ったきっかけは、私個人の経験したことではありません(ですから、その覚えのある人は安心してください 笑)。


しつこく断捨離の話をしてきましたが、関係がないわけではありません。自分のやりたいことを決めて、理性的に処分すべきものは処分すべきだと申し上げてきたのですが、この「処分すべきもの」の中には「写真」もありました。写真が処分しづらいのは、それに人が写っているからですよね。まあ、ある種、フェティシズムにやられてしまっているわけです。だって、本来、紙ですから。その背景には、人がいるわけです。となると、実物の人を断捨離する、つまり、もう付き合わないとか、連絡しないようにすることは、写真を捨てることよりもずっと難しくなるわけです。


もう会っていないから、そのまま関係は消滅ということもあるでしょう。それは幸福な終わり方です。しかし、もし相手から中傷されて傷ついた、だからもう関係を終わりにしたいと思っても、定期的に会うことになっている相手なら、関係を断絶することを自分から宣言することは難しいかもしれません(そうであっても、私はそうすべきだと思いますけど。理由は以下から推測してください)。


で、このテーマについて書こうと思ったのは、ショーペンハウエルという哲学者の本を読み返していたからです。『孤独と人生』。この本は私の書棚からなかなか消えないのです。彼の主著は『意志と表象としての世界』です。けっこう必死になって探して、震災直後の神戸の古本屋(懐かしい。震災の直接の影響はなかったようです)で、店じまいのためのバーゲンをやっていた際、5巻全てを手に入れたのですが、私のテーマとは関係がないことがわかったので、そっちは売りました。


ショーペンハウエルは、ヘーゲルの考えに対抗していました。私はヘーゲルの理解が進んだこともあって、『意志と表象としての世界』は不要としたわけですが、ただ、ショーペンハウエルは、『孤独と人生』のような「人生本」とも言える、すばらしい本も多数執筆しています。ヘーゲルが存命していて大人気のさなか、彼に対抗しようとしたのですから、見上げたものですが、その結果「孤独」になったのでしょうね。でも、彼は「頑固」なので、悪いのは世間なのだ、と考え、抵抗していました。そういう姿勢による産物が、これらの本なのです。私も20年以上前になりますが、一時期、孤独に苛まれた時期があり、その時は一年間、孤独を受け入れ、でも、強くなくてはならないために、この種の本を読みあさっていました。今は、それらの本もショーペンハウエルを除いて全て売ってしまいました、ショーペンハウエルは、たまに読んで、うんうんと頷いてから、ぱたんと本を閉じて、また机に向かっています。まあ、以下のようなショーペンハウエルが書いている状態に近い状態にもちこむことができた、と思うのです(あくまで自己判断の限りで)。


いろいろ紹介したいところもありますが、以下だけにします。


「…ほんのちょっとしたほのめかしでも、それが適切なものであれば、まったく根拠のない、ひどい告発以上に深い傷を負わせること…。おのれにさしむけられた非難が適当でないことを意識している人は、こんなものを安心して無視することもできるし、またそうもするであろう。…ところがおのれにさしむけられた攻撃的な表現を、それがあまり広まらないように抑制しようとこれつとめる者は、自分の価値についてあまり自信をもっていないにちがいない。こうした事情から、侮辱されてもおのれの価値を真底から評価している者は、おのずとまったく無関心でいることができる。またおのれの価値に自信がなく、そのため無関心ではいられない者でも、頭がよく教養がありさえすれば、無関心を装い、怒りを隠すようになるだろう。」(白水社版 p.93)


ここでは非難する相手の性状について述べられてはいません。非難された側の反応とその原因が述べられているだけです。これは書き方としても正解だと思います。相手がどうだから、と展開してしまうと、その相手の性状の分類なんかに踏み込む必要がありますし、ケース・バイ・ケースになります。非難された側の対処の仕方なら、ある程度絞り込めます。


こう言うと、批判される可能性が高いことを承知で書きますが、非難されて、ただ傷ついているだけではダメです(こうやって、偉そうにアドバイスしてしまうところが私が非難を招くところだと認識しています)。やり返せと言っているのではありません。ショーペンハウエルが言う通り、自分に、相手を無視できるだけの知力を身につけるしかない、馬鹿にすることも思いつかないほど、高みに行くしかないということです。せめて「呆れる」くらいでしょうか。私の場合、やはりマルクスを忘れることができなかったのが、功を奏したと思います。カントの『純粋理性批判』と並んで、世界で一番難しい書物と呼ばれることもある資本論、特にその中の価値論を理解しようとしたら、そんな自分が置かれている状態がどうであろうが、とにかく勉強しないといけないし、仕事漬けの生活から早く脱して、勉強できる体制を整えなければならないに決まっています。ですから、その過程で忘れていった、というのが正しいところでしょう。


相手からの非難が正しい内容を伴っていれば、反省した方が良いでしょうし、相手に感謝すべきだと思います。しかし、それもまた難しいものですよね。反省はできても、感謝を伝えるのは、今後の上下関係が決まってしまいますし、ひょっとしたら相手の攻撃がエスカレートするかもしれません。ですから、ここは「安心して無視する」のが一番だと思います。


ただ、問題は、無視するにしても「安心して」無視できるか、無関心を装い、怒りを隠すことができるか、ということですよね。そのためには、「おのれの価値に自信」をもち、「頭がよく教養」を身につけることが必要だとショーペンハウエルさんは言っているのです。そうすれば泰然としていられると。


若い人に伝えたいことは、いじめにあったりしても、悲嘆するのではなくて、それを糧にして、自分に自信を持てるようなことをしていくことです。相手からの非難や中傷を受けて、落ち込んでしまうのは、ショーちゃんが言うように、自分に自信がないからです。ただ、それは仕方ないのです。だって、自信をつけるだけの時間がまだなかったのです。朝の番組の『モーニングショー』で、かつてニュースキャスターをしていて、その後、弁護士になられた菊間さんが、「若い人は、人との付き合い方を過剰に考えるけど、大人になったら、人と別れるなんてことはよくあることで、普通のことと思えるようになる」と、顔色ひとつ変えずにおっしゃっていました。私もそう思います。大人になれば当たり前のことと受け止められるのは、菊間さんは努力して弁護士になることができたからでしょう。相当の努力をして、それ相応の結果を得たわけです。となると、努力すれば自分は目標を達成できると思えます。何か問題が生じても、努力できる範囲でなんとか問題を解決できる、と思うことができれば、将来に対して自信をもつことができるでしょう。


ですから、いじめにあったら、さっさとそういう人たちと関係を絶って、自分の道を見つけようと努力しましょう。私も何度かありました。たぶん、結構多い方だと思います。でも、きちんと生きていますし、楽しく過ごしています。中傷なんてたいしたことではないのです。殺されるわけではないのです。中傷する人は、他にすることがないのです。哀れんであげましょう。


自分のやるべきことを見つけて、それに邁進しましょう、それもできたら、そんな非難をするのに時間を使っている人をも含めた「社会」に貢献できるようなことに対して、ですね。つまり、そんな個人的な非難などに目を向けず、教養を身につけ、頭を良くして、おのれの価値に自信をもって生きるために、広く社会全体に目を向ける、と。


それこそが、庄司薫さんが描いた薫くんシリーズの最大のテーマでもありました。

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