なぜ断捨離を行うのか その3(最終回)
前回のブログ記事で、「理性的に必然的に、ある物が家に存在すべきかどうかを決めるのは、今後の自分の生き方に関わるかどうかを基準にするしかない」という旨を書きました。
となると、一番の問題は「今後の自分の生き方」が決まっているかどうか、になります。言うまでもないことですが、日々生活するためには、掃除や料理などの家事が必要であることは当たり前ですが、もちろん、そのようなことも含めての「生き方」です。
家事を軽視する人もいますが、それは大間違いで、この部分がしっかりしていないと、しっかりとした身体を維持することは難しくなっていきます。若い頃は大丈夫だろうと思っていても、習慣を変えることは難しいですし、基礎的な身体構成がうまくできていないと、衰える一方の身体に、新たな身体機能を加えることは難しくなります。私も例外ではなく、もともと運動が不得手だと認識していたこともあり、運動することを馬鹿にしていました。しかし、45歳になって、ふとしたことから自転車そのものの美しさに興味を抱き、ロードバイク(ドロップハンドルのついた自転車)を購入し、それから年に1万キロ走るようになり、なんとか今の体力を維持することができるようになりました。もし自転車との再会(小学生までは本当によく乗っていたのですが、中学生になってから、ぱたっと止めてしまいました。そういう意味での「再会」)がなければ、今どうなっているのか、想像するだに恐ろしいことです。当時、専用のウェアを着て、ロードバイクに乗って走ることは恥ずかしいという雰囲気がまだ漂っていたものの、やってみたら、そんな周囲の目はどうでも良いと思えるほど楽しくて、レーパンを履いたまま、しまなみ海道に向かうために、自転車を担いで電車に意気揚々と乗り込むようになっていました。四国は丸亀までノンストップで走りきることができました。そんな身体を作りあげるためには、食事は必要ですし、外で楽しんで自転車に乗ってきたのは良いものの、家に帰ったら、きったない部屋が待ち受けていて、そこでホコリを吸い込んでいる状態は気分が良いものではないでしょう。掃除、洗濯、料理という家事もまた「生き方」です。
さて、そういった「生き方」を前提としてはいますが、ここでの「今後の自分の生き方」とは、趣味なども含みますが、そういった、一日、あるいは、数日で完結する行動だけではなく、何年もかかって何かを成し遂げようとする生き方のことを主に言います。つまり、個人的に楽しむだけではなく、なんらかの形で社会的に貢献できるような生き方のことです。
となると、どうしても、なんらかの形で「社会的なもの」を自宅に持ち込まざるをえません。私にとっては、それは、他者が書いた著作であり、他者が伝えてくる情報です。それを自身に取り込むには、本が必要であり、インターネットを利用できるコンピュータと、それに付属するモニターやキーボードやマウス等々が必要です。そのためには、書棚が必要で、ある程度の広さのある机が必要です。その近くには椅子が必要で、腰を痛めたことがある私には、それなりの機能を備えた大きめの椅子が必要です。週に一度、音楽を聴きながらお酒を飲みますし、勉強中はクラシック音楽を聴きますので、LPやCDやカセットテープが必要で、それを収めるスペースが必要です。そうなると本の冊数との争いが生じ、不要なものが見つかります。音楽を聴くためには、ステレオセットが必要であり、それを置くラックも必要であり、勉強用の椅子ではリラックスできないので、それなりのソファが必要になります…。と考えていくと、必然的に、今後「不要な物」「なくてもかまわない物」が明白になってきます。あるいは、その際に思い付かないものが、周囲にあることに気づきます。それらが断捨離の対象になる、というわけです。
そして大切なことは、その人生の大筋に関係ないものは、思い切って目の前からなくなってもらうことです。いつか必要になるだろう、と考えていると、結局、生き方自身も曖昧になっていきます。すると、退職後、何をしたらいいのかわからないから、お金を払って講座に参加する、なんて変なことになります(こういうことが実際にあることを、最近テレビニュースで見ました。びっくりしました)。冷静に理詰めで考えていってみてください。自分のこれからのことを決めるのに、人に頼らないでください。
事実、今回の断捨離は、『透明な世界へ』を書き終えた後に、「今後の目標」と題し、箇条書きにした目標を書き出したことに始まります。