村上春樹は資本論の初版を読んだのか?ー『ノルウェイの森』篇
おはようございます。
この連日、断捨離に勤しんでおり、残念ながら、資本論独和対比版の執筆は滞っています。同時に『透明な世界へ』の改訂作業も進めていますので、同時にこちらも停滞することになりました。ただ、「令和の断捨離」もついに最終段階に入りました。本棚1つは完全に空になりました。今は押入れに眠っていたハードディスクの整理・統合をしています。音楽、ビデオ、PDF化した書籍、写真等を全て統合して、不要なデータを捨てるという作業に入っています。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」と、『ノルウェイの森』で永沢さんが言っていますので、できる限りそうしないように、過去の(あまり思い出したくない)記憶を喚起するようなものは全て捨てるようにしました。まあ、元々、あまり自分のことを同情することはありませんが。反省することはあります。ヘーゲル的な意味の反省ではなく、日常的に使用されるところの「反省」の意味です。
HDは中身を調べてみると、すでにかなり整理されていました。結局、最近PDF化した書籍と、データ化したCD音源の追加・統合をするだけで良いみたいです。今ハードディスクをマックに繋ぎ、データの転送を行っているところです。
また、家には、なんとLDプレーヤーがあります。LDは、LPと同じ30センチの大きさがあるDVD版なので、開閉スイッチを押すと、これを収めるためにトレーが、「びひゃー」(これしか擬態語を思いつかない)と飛び出してくるのですが、その様はなかなか面白いものです。「ここまで出てくるか」と後ろに引き下がってしまいます。このプレーヤーは以前アンプ目当てでオークションサイトで落札したオーディオ一式の中に含まれていたもので、ある意味全く意図せず手に入ったのです。それまで私はLD全盛期の時でも買ったことがなかったのですが(当時は確かLDは1枚あたり1万円くらいしたものです。同じ内容でもビデオテープの方がはるかに安かったのです)、今や500円程度でハード・オフで売りに出されていますので、試しに数枚買って再生してみようとしたら、これがなんとしっかり再生できたのです。で、これまで10数枚買ってきましたが、この手の古い機材はいつ何時故障するかわからず、もうすでに生産終了しているので、代替パーツもないはずですから、なんとかデータを移行しておいた方が良いと思い、昨日一日かけて方法を模索し、結局、私の場合、かつてのマックのシステムを使ってクイック・タイムで録画するしか方法がないと結論がでました。で、今、マックのハードディスクのデータを一旦、外付けのハードディスクに移行させ、空き容量を増やそうとしている最中です。来週中には完成するでしょう。そしたら、LDもLDプレーヤーも売り払うことができます。が、「びひゃー」が面白いので、使える間は使うかな。
そういう作業をしながら、『ノルウェイの森』を再読していたのです。一度目に読んだのが、たぶん20歳代だったと思うのですが、その時は、村上龍さんの方に私は夢中で、彼のすさまじいばかりの描写に比較して、『ノルウェイの森』上巻の出だしがあまりに暗い描写で、それに嫌気がさし(今読めば、春樹さんのパターンが盛り込まれている、まさに「色彩を失った」情景だなあと思えますが)、たぶんここで読むのを辞めたのです。…それから、40年経って、一通り、村上さんの作品も読んだ後で、この本を読んでみると、上巻の初めに登場する「井戸」の展開がないのを不思議に思ったりして、春樹さんの作品全体の中での位置を確認したりすると、なかなか興味深く、ある意味、この作品は、春樹さんのエッセーや長編や短編などが持っているすべての魅力の萌芽であるような気がします。ユーモアあり、深刻さあり。
忘れない内に書いておくと、この作品は、おそらく、庄司薫さんの作品『白鳥の歌なんか聞こえない』のオマージュだと思います。直子さんは薫君の幼馴染の由美さんによく似ています(特にこの『白鳥」に登場する由美さんに)。庄司薫さんの作品を私は10代の頃から読んでおり、この『ノルウェイの森』を読んでいて、その頃のことを思い出してもいました。やれやれ。どうあっても、過去のことは、何かのきっかけで思い出してしまうものです。
しかし(と言って、関西人は話題を変える)、この中に登場する緑さんは魅力的な人ですね。その彼女が下巻で、やや唐突に「あなた『資本論』って読んだことある?」と、主人公のワタナベ君に訊くのです。私はつんのめりそうになりました。ワタナベ君はそれに対して「『資本論」を正確に読むにはそうするための思考システムの習得が必要なんだよ」と応えています。その通りです。私なりに言うと、人間と異なる思考システムの習得が必要なのです。商品の思考システムが必要なのです。もしワタナベ君がそのことを言っているとしたら、やはり村上さんは資本論の初版を読んだのではないでしょうか。『1Q84』で登場する、さまざまな場所に登場する、妖精のような存在は、私には貨幣であると思えたのです。まあ、これ以上、つっこむことはないのですけど。ああ、そういえば、『パン屋再攻撃』という短編集の中に、「ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界」という、奇妙なタイトル(春樹さんの場合、いつもそうか。そのタイトルに引きづられて本を読んでいる気がする)の短編が入っていますが、最後に主人公が「あらゆる意味のある行為はその独自のシステムを有している。風が吹いたって吹かなくたって、僕はそんな具合に生きているのだ。」というセリフがありますね。
その後の緑さんがボロカスに言う学生運動かぶれのやつらに対する批判を読んですっきりしました。その通りですよ、彼らは。そして彼らもまた、『資本論』を読むための思考システムを習得できなかったために、『資本論』の内容を間違って広めるのに一役買った輩であり、罪深いです。しかも、その学生たちを教えていた大学の先生方も「そうするための思考システム」が必要だなんて思わず教えていたので、それを解きほぐすのが大変な作業なのです。
対比版と『透明』の改訂版は6月下旬までに出版します。ちょっとマルクスから離れて、今後のことを考えてみたくなったのです。また戻ります。