『透明な世界へ』というタイトルについて
『透明な世界へ』というタイトルをつけた理由について書きます。これは本にはあえて書いていません。
まず、タイトルの「透明な世界」とは、『資本論』の翻訳・解説をしている本には、およそ相応しくないタイトルに思えるでしょうが、実はそうでもないのです。
よく言われることに、マルクスは社会主義や共産主義などを唱えていたわりには、『資本論』ではそれらについて言及がない、というものがあります。確かにそのようなタイトルの章も節もありません。ですから、表面的にはそれは正しく思えます。そういえば、昔、お笑いタレントが講師となって、テレビ番組で『資本論』を扱っていましたが、まさにこのようなことを言っていました。私は彼が「お笑いタレント」だから相応しくないと言っているのではありません。当時の彼を私は好きでしたし、深夜ラジオもよく聴いていました。ただ、間違ったことを言っていたのが、たまたま彼だったということです。
もちろん、そんなことはない、というのが私の応えです。
反論根拠はいくつかあげられます。
この『資本論』とは、本来『資本』と訳すべきタイトルが冠されており(Das Kapital)、資本の分析なのです。ですから、社会像そのものについて述べたものではない、というのが1点目です。マルクスは、社会像から語るなんてことは絶対にしません。目の前にある、あるいは、生活で日常的に眼にする「商品」から論を起こすのです。これが唯物論です。テレビ番組の彼は、初めから『資本論』は社会主義に関する本だと思い込んでいたのでしょう。
2点目は、マルクスが書いている商品や価値のあり様自体が、大変奇妙なもので、こんなものを社会の基盤において生活していたら、そりゃ先行き真っ暗だわ、と思わせてくれる、あるいはそう自然と思えるように読むべき書物である、というものです。つまり、資本主義の根幹が「変」なのです。資本主義の逆を考えれば、社会主義に行き着くわけですから、『資本論』に書かれている内容をひっくり返して、労働生産物が商品化しない、つまり、価値が存在しない世界を考えてみれば良いのです。このような本は受動的にのみ読んではいけません。書かれていないと誤解しても、書いてあるだろうと考えて、自身で考えてみましょう。
実際には、マルクスは現行版の商品章ですでに、「自由な人々の共同体」について書いています。この自由な人々とは、資本主義が終わった後に誕生する人々のことです。ですから、すぐにマルクスは社会主義について言及しています。「社会主義」という言葉が登場しないだけです。これが直接的な反論理由です。
そこに以下の文言があります。
「労働に対する人々の社会的関係と、労働生産物に対する人々の社会的関係は、生産においても分配においても、透明なまでに単純であろう。(林訳)」
この「透明」という言葉を借用してつけたのが、この本のタイトルであり、私の出版社である「透徹(とうてつ)」という名称です。
もちろん、この「透明」というのは、濁った状態から脱しているということです。社会が商品のもたらす物神性などにまきこまれず、労働者が直接的に自身の労働した分を配分される「透明」さを示しているものでもあるのですが、『資本論』の解釈の世界を「透明」にしたい、という意味でもあります。