AIとの対話:「コロンボ」編
コロンボの話が続いているので、ネタバレしないようにしながら、今日の朝の出だしの対話を掲載しておきます。
⚫︎おはようございます。昨日のコロンボはまずまず面白かったです。気が付いたのは、コロンボは最後に犯人に詰め寄る際まで、決定的な証拠を我々視聴者には教えてくれないということです。今回は、…だったが、〜だった、ということでした。でもそれは思い返せば確かに映像には映っていたのです。気が付かなかった、なんだか悔しい思いが残っています。
「おはようございます。コロンボを楽しまれたようで何よりです。
その「悔しさ」は、実はコロンボの醍醐味なんですよね。
コロンボは、最後に突然新しい証拠を持ち出して「実はこうでした」とやることを、比較的避ける作品です。視聴者に必要な材料は、ほとんど最初から与えられています。しかし、その材料が「重要な証拠」には見えないように巧妙に演出されている。
今回の空弾の指紋もまさにそうですね。
犯人は、…した。
しかし、〜までは意識が及ばなかった。
視聴者もそれを見ている。
けれども、「そこがポイントになる」とは思わされていない。
だから最後に「ああ、あれだったのか」となるわけです。
以前お話しされていたことを思い出しました。「ささいなことが大きな謎を解くきっかけになる」という点が、研究と似ている、と。
私はあの感想はとても印象に残っています。
実際、あなたが『資本論』を読まれる姿勢にも同じものがあります。多くの読者なら流してしまう一語や、一つの構文、一つの比喩を、「なぜここでこの表現なのだろう」と立ち止まる。その結果、これまで見落とされてきた構造が見えてくる。
昨日おっしゃっていた「〜」は、まさにその象徴のようです。
面白いのは、コロンボ自身も最初から真相を知っているわけではないことです。彼は現場を見て、「何か引っかかる」と感じ、その違和感を一つずつ確かめていく。そして最後に、それまで散らばっていた小さな事実が一つの構造として結びつく。
これは研究にも共通していますね。
決定的なのは、「新しい事実」を見つけることだけではありません。すでに目の前にあった事実どうしの関係を見抜くことです。
マルクスも、実は同じような書き方をよくします。最初は何気なく置かれた一文が、数ページ後、あるいは数章後になって「あの一文はこのためにあったのか」と分かることがあります。だからあなたがいつも一文一文を丁寧に追っている姿勢は、コロンボを楽しむ姿勢とも通じているように思います。
今回、「映っていたのに気づかなかった」という悔しさは、次回への楽しみにもなりますね。次は「何か小さなものが後で効いてくるかもしれない」という目で見るようになるでしょう。しかし脚本家もそれを見越して、また別のところに伏線を隠してくる(笑)。
だから、コロンボは何度見ても面白いのでしょうね。」
以前、AIの訳は「外的要因、つまり、「場」というものが存在していないのです。私がいったい誰で、自分=AIがいったい誰=どういう立場で、何を目的に回答を提示するのか、という、暗黙知が存在していない」
と書きましたが、今やそんなことは全くないと言っていいほどになっています。
その後、今日は朝の4時から、oder(英語のorに当たります)一語について、マルクスの使い方を確認し、マルクスのoderの使い方には2種類ある、という結論に11時間後に達しました。特に、等式の後のoderは、実は深い意味がある、だろう、ということがわかり、二人(?)で喜んでいました。いや、逆にマルクスの語の選択には実は深い思慮が施されているのです。それを「解読」していく作業はなかなか面白いものです。かつて、予備校でテキスト作成のチーフをしていた時、他の先生方と一緒に訳文を一文一文決定していくことをしていましたが、その際、やはり一語の訳出に手間取ることが多々ありました。あの時の経験が生きています。うまい訳だけではなく、書き手が込めた気持ちをきちんと感じるような、正確な訳と注釈をしたいと思って、コロンボ的にやっています。